日本人は本当に“ジョーカー”になる可能性があるのか
世間で大ヒット旋風を起こしている『ジョーカー』を少しばかり遅れて鑑賞。
私はバットマンについては、ヒーローという認識しかなく、彼の姿を見たのは『ジャスティス・リーグ』以外無いのでほぼ知識無ということになる。そのため、ジョーカーについても彼と対立しているヴィランという認識しかないわけだ。
では、何故、『ジョーカー』をわざわざ映画館まで足を運んで見に行ったか。
大ヒットしてるからという理由もあるが、1番はネットでよく見られる「誰しもジョーカーになりうるんだ」という主張に惹かれたからである。
「ジョーカーに共感してしまう」「俺もジョーカーになるかも」と言った感想から、「日本人はジョーカーになりやすい人種だ!」という人種的観点から見た感想などインターネット(主にTwitter)では皆が悪の象徴であるハズのジョーカーを持ち上げ賛同している。
先進国でありながら貧富の格差が広く幸福度や平等度が有り得ない程低い、若者の自殺率が年々増えている異常な国・日本。
この暗く陰鬱な国の国民が共感してしまうダークヒーロー。その存在がとても気になったのだ。
まず率直な感想として、映画自体はめちゃくちゃ良かった。
ジョーカー、元いアーサーという一人の男が金・運・環境に見放され、悪の道へと堕ちていく過程が上手く描かれている。
辛くなると笑ってしまうという精神疾患持ちで、さらに妄想癖持ちの老いた母親と二人暮し、コメディアンを目指して夢を追いかけるが笑いのセンスがちょっとズレてて中々上手くいかない。ピエロのバイトでは通りすがりの若者にリンチされたり、同僚にハメられてクビにされたり散々だし、近所の女に想いを寄せるが気味悪がられてストーカーと化すし.......。果ては、依存先であった母親が重度の精神疾患持ちで、過去にパートナーとネグレクトや虐待を自分に対して行っていたという事実が発覚。コメディアンの舞台として憧れていたテレビ番組に嘲笑の的として呼ばれる。
確かにこれだけの不幸が続けば人間壊れていくのは簡単で、アーサーが日々を重ねる毎に静かに狂っていくのが手に取るように分かる。気持ちもとても分かる。
そして、更にアーサーをジョーカーへと導いたのは、ゴッサムシティの人々の不満だ。
アーサーが1番初めに犯した犯罪は、ピエロ姿の彼をからかって暴力を振るってきた証券マン3人を銃殺したことである。
この事件から、人々の富裕層への不平不満が爆発し、ピエロの仮面をつけた人々がデモを起こすようになる。
言わば、アーサーはムーブメントの火付け役となり、悪のカリスマとしてシンボルとなった。
この事件をきっかけに、彼は「俺が死んでも皆踏みつける」「だが、俺はここにいる」と自己存在感を見出すことになる。
今まで、誰にも注目されることの無かった彼が、大勢の人の中心となり崇拝される立場となる。それだけで彼の心は潤ったのだと思う。
バットマンシリーズでヒーローとして描かれるウェイン氏を悪役とし、ヴィランとして描かれるジョーカーを逆に正義として描く。
これはとてもドラマ的で同情を誘いやすく、又アーサーを報われない悲劇の男として描くことで更に共感を呼ぶ。
バットマンシリーズをマトモに見てないので、これがバットマンシリーズの正式な作品かどうか問われればノーコメントだが、1つの映画としてはかなりよくできた作品だと感じる。
さて、ここで最初に述べた話を思い出してほしい。
「誰しもジョーカーになりうる」「日本人はジョーカーになりやすい」
こうした意見が沢山ネットで見受けられる。
実際にジョーカーを見た身だからあえて言おう。
果たして本当にそうだろうか?
物語の後半、テレビ番組に出演しているジョーカーはこう言う。
「俺にはもう失うものはなにもないんだ」
仕事も無い、親も殺した、金も無い。言わば彼は“無敵の人”である。
無敵の人と言えば記憶に新しいのが、川崎市登戸通り魔事件や京都アニメーション放火事件。ちょっと昔だが愛知の新幹線無差別殺傷事件。そしてさらに昔に遡れば、秋葉原通り魔殺人の加藤や附属池田小事件の宅間が頭をよぎる。
ジョーカーに共感した、なるかもしれないと言っている人は、実在した無敵の人に対しても同じ言葉を言うのか。
否。
彼ら無敵の人に対して世間は「自分の苦しさや自殺に人を巻き込むな」「お前の育った環境など知らない。殺人鬼は死刑」などの言葉を浴びせる。
又、自殺した人に対しても日本人は非常に冷たいと感じる。
電車に飛び降りて自殺すれば舌打ちがそこらじゅうから聞こえてくる。
貧困や生きづらさ、虚無感に共感を感じる人間ならそのような言葉も舌打ちも出てこないのではないだろうか?
更に私が違和感を感じたのは、普段からsyamu_gameや性の喜びおじさんなどを晒し上げオモチャにし笑っている人間たちが「誰しもジョーカーになる」と言って自分を憐れんでいる現状だ。
物語の主人公アーサーには辛くなると笑ってしまう疾患がある。
もしも、アーサーが実際に日本にいたらどうだろうか。
多分、「電車にヤベー奴いたw」と盗撮されてTwitterやInstagram、TikTokに載せられ遊ばれる。
つまり、“日本人”という人種はジョーカーになりやすいのではなく、ジョーカーを笑い者にする側になりやすいのではないかということだ。
日本人取り分けその中でもインターネットに住む人々は自分が無意識な加害者になっていることに気付かずに生活している。
確かに、生きづらさを抱えた人間が度を越すとジョーカーになりうる可能性は十分有り得る。だがしかし、反対にジョーカーを生み出す確率も同じなのだ。
では、『ジョーカー』に何を見い出せばいいのか。
ジョーカーは確かに生きづらい不安を抱えた私たちに寄り添って一緒に怒ってくれる。怒りを爆発させて正当化してくれる。
だが、そこで怒るだけではいけない。ダークヒーローを簡単に容認してはいけない。
どうすれば、無敵の人を作らずに済むのか、悪を生み出さないように、自分が悪に堕ちないようにするにはどうすればいいのかを考えなければならないのだ。
実写版『美女と野獣』はオリジナル忠実再現の豪華絢爛ロマンスムービー
ブログを開設してはや1ヶ月ほど経とうとしているが、未だ記事数が2つである。
継続は力なり。
かなり身に染みる言葉ではあるが、それが行動に起こせない病気を患っている。無念。
さて、最近のディズニー映画界では実写化が大流行している。アトラクションを原作にした『パイレーツ・オブ・カリビアン』『ホーンテッドマンション』に続き、アニメーションを原作にした『シンデレラ』『アラジン』『ダンボ』などなど。
更には、既に実写化が決まっている作品もあり、まだまだディズニー実写ブームは止まりそうにない。(新たなアニメーション作品を作って欲しいのはここだけの話)
6月に実写『アラジン』を見て大いに感銘を受けた私は周りに馬鹿みたいに良さ語っていたのだが、その時に皆に口を揃えて「美女と野獣も良かった」と言われた。
実はディズニーオタクをしていながら実写『美女と野獣』を見たことがなかったのでこの機会に視聴。
まぁ、なんつーか、普通に良かったわ。
もう皆見たことあるからあらすじ書かないでいいよね?え?よくない?マジ?
簡単に言うとアレだ、ある所に容姿は綺麗だけど性格悪い王子おったんやけど、その性格のせいで魔女に呪いをかけられて醜い野獣の姿になっちまったんだ。その呪いは人を愛し人に愛される真実の愛を見つければ解けるっつーわけで。まぁ色々あって出会っちゃったベルっつー女との交流を経て温かい心を取り戻すっつー話なんだけど……。
とてもよく分かりやすい物語である。
(私のあらすじが分かりやすいかどうかは置いておいて)
誰からも見向きもされないような、寧ろ恐れられるような容姿になり、1人の美少女との交流を通して知らなかった優しさや愛情を学んでいくハートフルストーリーだ。
この物語は簡単に見ると、このように教訓めいたラブストーリーなのだが、実は結構深い。
と言うのも、『美女と野獣』はディズニーお得意のプリンセスストーリーに位置する。
ここで1つディズニープリンセスについて簡単に話をしておきたい。
プリンセスは『白雪姫』『シンデレラ』から始まり、今日では『アナと雪の女王』のアナやエルサ、『モアナと伝説の海』のモアナなど人種・性格問わず多種多様な女の子たちがいる。
その中で彼女達は発展、進歩し様々な社会に適用してきた。
まず『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』
この3つはステレオタイプのプリンセスストーリーであり、「待ってるだけの女性像」として批判されることが多かった。
これを受けて次に作られたのが『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』『ポカホンタス』である。
ここでは主に「知的で聡明な女性」が描かれている。今回の『美女と野獣』ではそれが顕著に現れていて、ベルは街でも一風変わった本が大好きな少女でガストンという強い男に告白されても靡かず、世界に目を向けていつかは自分の目で外の世界を見たいと思っている。つまりは、自分の立場や現状に不満を抱え、知識を付け多くを学び自ら行動するタイプである。
実写版『アラジン』ではジャスミンに対する掘り下げが深く、より一層「強い女性」というイメージが描かれている。
だがしかし、これでも批判はつきもので、今度は「結局女性の幸せは恋愛だけなのか?」と問われるようになったのだ。これは、彼女らの行動が、目的が漠然としていたり、"男のため"であったりしていたからだ。
そして次にできたのは『ムーラン』『プリンセスと魔法のキス』『塔の上のラプンツェル』『メリダとおそろしの森』『アナと雪の女王』『モアナと伝説の海』である。
先の3つは恋愛要素こそあれど、3人とも自分のやりたいことや理想がハッキリしており、男のためではなく自分のために積極的に行動を起こしていく。
そして後の3つでは王子様を必要としないプリンセスが登場する。
このようにプリンセス達は社会と共に変化してきた。
『美女と野獣』に話を戻すと、先述した通りベルは「知的で聡明な女性」である。
王子様を待つよりも外に出ていきたい、沢山の本を読んで知識をつけたい、そう思っている女の子だ。
捕らわれた父を助けるために自らが犠牲となったり、野獣に立ち向かったり、はたまた野獣と本を読んだりと強く可憐な女性として描かれている。
まぁ、この辺はオリジナル然りで、実写でも特に差はなく描かれている。
「強い女性」というメッセージを感じたいなら『アラジン』の実写の方がより一層感じられると思う。
もう1人、この物語にはキーパーソンがいる。
それは、ガストンの手下ル・フウである。
ディズニー映画でプリンセスと同じぐらい重要視されているのがヴィランズである。
ヴィランズがいなければ物語に面白味がなく話の進展がない。
最初は悪役として忌み嫌われていたヴィランズだが、近年ではかなりの人気を博すようになった。子供の頃アンパンマンよりバイキンマンを応援するタイプだった私として非常に嬉しい。
で、ル・フウと言えば『ピーターパン』で言うところのスミー、『アラジン』で言うところのイアーゴで、名脇役っつーか、ヴィラン本人を立てるくっつき虫的な存在なのである。
『ピーターパン』スミーよろしくオリジナルではアホキャラでどこか憎めないキャラとして描かれているル・フウだが、実写版ではかなり複雑なキャラとなっている。
彼はガストンに同性としての尊敬以上に、恋愛感情を抱いているのだ。
そして、それでありながら「善」と「悪」の狭間で揺れ動くかなり人間臭いキャラクター性を持っている。
ベルと野獣を「善」側のキャラクター、ガストンを「悪」側のキャラクターとして振り分けた場合、ルフゥの立ち位置は「どちらでもない」のだ。
ガストンがやっていることが全て正しいとは思えないが、恋慕相手にNOとは言えず結局悪の道を着いて行ってしまう。
そして、同性であると同時に、恋慕相手にはもうすでに気になる存在がいて、そいつとくっつく為に手助けをしろと言われる始末。
叶わない恋であり、恋愛手助けをしろと言われてる時点で「恋愛対象」から外れていると宣言されているようなもので……
なんかもう、涙が出ますよ。
ルフゥは、それでも、健気でガストンの傍にい続ける…
オリジナル版ではそこまでル・フウに対して深く書き込んではおらず、彼に対する印象はかなり違ったものとなっている。
『アナと雪の女王』で姉妹愛に見せかけた同性愛肯定を堂々と世に送り出したディズニーだが、今回の『美女と野獣』では更に顕著に同性愛の肯定を見せつけた。
プリンセスよろしく、社会の最先端を突っ走るディズニーさん流石やで。
最近ではさすがに顕著すぎるやろ、ウザイで。という声も聞こえるが、ディズニー映画の歴史を辿ると、彼らは社会問題の最先端にいつもいるのだ。時には戦争に関するプロパガンダ映画を作ったり、黒人差別的な描写を盛り込むこともあった。
それが良いか悪いかは問えないが、その時の社会の動きや流行が絡んでいたことには変わらず、ディズニーはいつでも社会情勢を隈無く監視している。
それが戦略であり、表現方法の一つになり得る。
…………
と、まぁ、こんな感じで正直あまり心に残ったものは無いと言ったのが感想である。
もちろん、映像美や衣装、CG技術は素晴らしく、歌もダンスもかなりハイクオリティで普通のミュージカル映画としてかなり楽しめる映画に変わりはない。
豪華絢爛なロマンスムービーと書いたが、本当にその通りで、登場する建物や装飾、ドレスに人々、その全てが煌びやかで鮮やかである。
ストーリーは原作に忠実で、ストーリーに改変が無いほどの適切な量のキャラの掘り下げ、どこを見ても美しい画。
オリジナル版の『美女と野獣』が好きなら見て損はないと思う。
オリジナル版で個人的に大好きな、『Be our guest』のシーン、ガストンの歌、ガストン達とルミエール達が戦うシーンもよく再現されており、コミカルかつ豪華に描かれているのが良かったなぁ…と。
悪いところは特に無いし、良いところばかりではあるのだけど、『アラジン』の良さが私の中で勝ってしまって期待していたよりも心に刺さらなかったのが『美女と野獣』だ。
見る順番が違っていたら少し感想も違っていたかもしれない。
また『アラジン』や他実写についても記事を書きたいし、ほかのプリンセスについても何かあれば書こうと思っている。
オリジナル版で名シーンとされているダンスシーン
映像死ぬほど綺麗。エモいしビジュが良いし綺麗だし、最高 of the 最高。
『トイストーリー4』について思うこと(※ネタバレ有り)
『トイストーリー』と言えば、今やPixarを代表するシリーズで世界中から愛されているおもちゃの世界を舞台とした映画だ。
1,2,3とどれも高い評価を得ている。
特に『トイストーリー3』は完璧なラストとしてかなり高い評価を受けている。
私もラストには涙を流さずにはいられない。
そんな素晴らしいラストを迎え、終わったと思われた『トイストーリー』の最新作。
『トイストーリー4』
結論から言うと、私はかなり良かったと思っている。
だが、世間では賛否両論を呼んでいる問題作だ。
今回は、その世間の賛否と比較しながらレビューしていきたい。
1.完全な悪役の欠如
まず、第1にこの映画には完全な悪という存在はいない。
ディズニーと言えば、ヴィランズあってのものというイメージが強い。
現に、トイストーリーシリーズではちゃんと各ストーリーにヴィランズが設定されている。1では悪戯坊主のシド、2ではおもちゃ屋の経営者アル、3では保育園の独裁クマロッツォ。特にロッツォがその見た目の可愛さとヒトラー並の独裁政治とのギャップによって人気を博している。
どのキャラクターも完全な悪として描かれている。(ロッツォに対しては悲しい過去があるが彼の残忍な性格から完璧な悪役として設定されているのは明白)
しかし、今作はどうだろうか。
確かに、アンティークショップの女王として君臨しているギャビー・ギャビー、彼女の手下であるベンソン人形など、人形ホラー映画顔負けのキャラクターが登場する。特にベンソンは映画『デッドサイレンス』に出てくる腹話術人形にそっくりで、途中で私は『チャイルド・プレイ』新作を見に来たのかと錯覚したね。
彼女達は最初こそウッディを狙っているが、それには深い訳があり、ウッディ自身も最終的には彼女の要件を受け入れることとなる。
彼女の願いは『愛されること』
しかし、ボイスボックスが壊れていて上手く機能できない彼女はそのせいで子供に愛されないと思っている。
その子供に愛されたいという渇望が彼女を突き動かし、ウッディのボイスボックスを狙って手下のベンソン達と行動を起こす。
ずっと愛されることを夢見て、今まで沢山の愛の記憶を持ってるウッディに対して「貴方は十分じゃない。私にも教えて欲しい」と懇願するシーンは涙無しでは見られない。
1度は子供に拒絶される彼女だが、ウッディ達と行動することで、1歩を踏み出し新たな持ち主を見つけることができる。
これが完全な悪と言えようか。何と人間臭くて悲しい、しかし生に溢れた温かいキャラクターなんだ。
見る前から様々なレビューで「悪役がいない」と言われていたが、確かにこのストーリーにはヴィランは居ない。全く、居ない。
『愛されたい』という願いが暴走し、絶望し、そしてそれを乗り越えて幸せを掴み取る。トイストーリー4では主に『成長』をテーマに描かれているが、彼女もその成長を遂げたキャラクターの1人なのだ。
2.ボー・ピープという存在の描かれ方
さて、4にはシリーズ途中でリストラされたかのように思われたボー・ピープという陶器でできた女性のおもちゃが再登場する。
元々の彼女はウッディと友達以上恋人未満的な描かれ方をしており、性格も女性らしくお淑やか且つ少し上をいく小悪魔お姉さんキャラだった。見た目もメリーポピンズみたいなふんわりしたドレスに杖、という"いかにも"的な容姿であった。
そんな彼女の再登場としてボーファンは歓喜したのではないだろうか。
しかし、今作の彼女は前のまま出てきた訳ではなかった。
1度はアンディ家を離れ、他人の手に渡るも、そこでも別れが訪れアンティークショップに売られ、そして今は店を出て野良のおもちゃとして一緒にいた3匹の羊、そしてレゴの従業員みてぇなちいせぇおもちゃギグルと一緒に放浪する身となっている。
服装も前のドレス姿ではなく、スタイルの良いパンツスタイルにドレスをマント代わりに使っている。
言わば、彼女は今作で『自立した女性像』として描かれている。
これは近年のディズニー映画、いや映画界全体における流行りだ。
近年の社会の変化として、女性のこれまでの扱われ方を疑問視し新たな女性の生き方を主張するフェミニズムが登場した。ここから文学の世界では『男性の手を借りない女性』『バリバリ働く女性』『恋愛だけを夢見ない女性』など、強い女性が描かれることが多くなった。
ボー・ピープもその1人である。
しかし、
「ボーってこんなキャラだっけ?」
「もうディズニーの露骨なフェミの押しつけはごめんだ」
否定派にはこのような意見がある。
前者はこれまでの設定の改変による不快感、後者は露骨すぎるマイノリティに対する援助への不快感である。
日本人はこれまでずっと続いてきたことが突然変わることに慣れていない。サザエさんやドラえもんを例に出すと分かりやすいが、彼らはずっと同じ時を生き、同じようなストーリーを毎回繰り返すことでお茶の間を沸かしている。もし、のび太とドラえもんが本当に離れ離れになって、これからはのび太又はドラえもんどちらか1人の物語が始まりますと言われたらどうなるだろうか。きっと炎上する。
そういうことなのだ。日本人にとって設定の大幅な改変は途端におかしなものに見える。(後に記述するが、これは今作のラストでも同じことが言える)
そして、マイノリティの問題だが、これは今の流行りなので何とも言えない。
良いと思う人は良いと言うし、悪いと思う人は悪いと言う。社会とはそういうものである。
ちなみに、私はかなり好意的に受け入れられた。結局のところ、恐れず自ら進んで行動を起こせていたボーはかなり格好良く見えたのだ。腕が取れても、作戦を失敗しても、ウッディは怖がるばかりでもボーはさっさと原因を修繕し前に進んでいく。
私はフェミではないが、男性の手を借りず自立した女性というものには憧れがある。つまりは、結局まだ理想的な女性の在り方は社会において実現できていないのだ。
そうしてそれが、文芸や芸術の流行りになり社会に訴えかけるという構図が出来上がっている。
3.ラストのウッディの決断について
賛否両論ある中でもっとも言われているのがこれだ。
ラスト、ウッディはボニーの元に帰らずボーと共に放浪の身となることを選択する。そしてそれは必然的に今までの仲間と離れ離れになることを示している。
これに対し、否定派と賛成派がいるのだが、2つを比べてみるとこうなる。
まず否定派。こちらは、アンディ目線(つまりおもちゃは子供のもの)で見ている。
次に賛成派。これは、おもちゃ目線(子供はおらず、おもちゃ自信がどう考えるか)で見ている。
アンディ目線で見ている人々は、結局ウッディはボニーを見捨てた。自分が愛されなくなったからと言って持ち主の元、そして仲間たちと離れるのは如何なものかという観点を持っている。
ボニーがおもちゃを無くしたことに気付けば悲しむのでは?ウッディとバズは永遠の相棒でしょ?
果たして本当にそうだろうか。
ラストで戸惑っているウッディにバズは
「ボニーなら大丈夫だ」
と言い背中を押す。
確かにウッディとバズは永遠の相棒である。でないとこんな言葉はかけられない。しかし、離れ離れになったとして彼らの絆が消えることは無いだろう。これからウッディは1人のおもちゃとして、バズはボニーのおもちゃとして互いに違う人生を送る。しかし、お互いを忘れることは無いだろうし、一緒に過ごした日々が消える訳では無いのだ。
そして、さらに、ウッディは大切な保安官バッジをジェシーに渡す。
そう、ウッディはボニーを"見捨てた"のではなく仲間に"託した"のだ。
そして、やっと本当の自分を見つけたウッディは仲間と別れ歩き出す。
極端に言えば、これは『トイストーリー』ではなく『ウッディ自身の成長ストーリー』と言った方が正しいかもしれない。
もしかしたら、今作の題名が『トイストーリー4』ではなく『ウッディ』であったならこのラストに納得する人は今より多かったかもしれない。
前述でも記したように、日本人は変わることに慣れていない。
『トイストーリー』シリーズの延長として今作を期待していた人にとってこのラストは確かに残酷で憤怒の対象であるかもしれない。
だが、この手法実は『シュガーラッシュ:オンライン』で既にやっている。
そして、更に面白いことに、今作は日本のレビューサイトでは83%の満足度に対し、米国の有名レビューサイトではなんと98%の支持率を獲得している。
この98%、実は完璧なラストを迎えたと言われる3よりも高い評価となっている。
日本で賛否両論の嵐を巻き起こした『トイストーリー4』。この評価、実はお国柄の問題が大きかったのかもしれない。
番外編:キャラクターがメンヘラすぎる
これは世間で言われていることではなく、私自身が勝手に思っていることなのだが、キャラクターがもれなくメンヘラ的である。
まずはメンヘラ代表、新キャラのフォーキー。
「僕はゴミだー!」という特徴的な台詞で登場した彼は、ボニーが自作し大切に扱われているおもちゃなのだが、自らをおもちゃとして受け入れようとせず目を離すと直ぐにゴミ箱に入ろうとしてしまう。
「僕はゴミ」という台詞を見た時、(おいおい、メンヘラの自己紹介か?)と咄嗟に思ってしまった。
愛されているにも関わらず、それを受け入れず元の場所に固執しようと自分を下卑する、自虐的メンヘラに認定したい。
そしてウッディ。
こいつは参った。結論を言うとこいつは過去の栄光に縋りたがり執着型過保護メンヘラである。
まぁ、それが顕著に現れているのが最初のシーン。ボニーに貰われても、結局頭の片隅にあるのはアンディアンディアンディアンディ……。そして、おもちゃのリーダーであった過去の自分。
更にその栄光を取り戻すために、ボニーに好かれてなくてもボニーの面倒を見ることが自分の使命であると勝手に責任を全て背負い込む始末。
なぁ、お前の過保護は相手のためじゃねぇ、多分全部自分のためだぜ……。
ギャビー・ギャビー
わっっっかりやすいメンヘラ。
愛が欲しいの、お願い助けて。そういう典型的メンヘラ。多分誰がどう見てもメンヘラ。
あの子と遊ぶ時のためにティーパーティーの練習をしてるの♡
私が良くなったらあの子は私を好きになってくれるはず♡
とか……もうね、メンヘラを超えてヤンデレ。
でも分かる。自分が悪いから好かれないと思い込むことも、それでも愛が欲しいと懇願するジレンマも、めちゃくちゃ分かる。ただただ普通に共感する。メンヘラなので。
ギャビー・ギャビーさんには、このメンヘラがすごい!メンヘラ大賞2019を差し上げたいと思います。
デューク・カブーン
フォーキーを助けるためにウッディ達に協力するレゴみたいなバイクに乗ったおっさん。なだぎ武みたいなやつ。
彼は、CMではダイナミックなジャンプを披露するも、本当はそんなことはできないと持ち主に知られ飽きられる。そして、その過去のトラウマから自らの役目であるジャンプに対しての恐怖を持っている。
そう、トラウマ型メンヘラだ。
他の人から褒められれば途端にやる気を出すが、行動の寸前でトラウマが頭を過ぎり直ぐにネガティブになる。めっちゃ情緒不安定、躁鬱。実際いたら本当めんどくさいメンヘラ。ガチの人。
他にも、毒舌ひねくれ型メンヘラ・ダッキー&バニー(別名チョコレートプラネット)、自らの意思ではなく声に従うだけのポンコツメンヘラ・バズなど様々なメンヘラが登場する。
だが、ここでのメンヘラは悪いことではない。何故なら、今作は如何にそれらを乗り越え成長できるかという物語だからだ。
それぞれが自分のアイデンティティを見失い戸惑う。しかし、他人との触れ合い、そして思考することによって自我の発見によって克服する。
ラストがどうとか、トイストーリーじゃないとか、社会背景反映されすぎとか、そんなこと全部置いておいて、ただただメンヘラとして心救われる映画だったことに間違いないのだ。