日本人は本当に“ジョーカー”になる可能性があるのか
世間で大ヒット旋風を起こしている『ジョーカー』を少しばかり遅れて鑑賞。
私はバットマンについては、ヒーローという認識しかなく、彼の姿を見たのは『ジャスティス・リーグ』以外無いのでほぼ知識無ということになる。そのため、ジョーカーについても彼と対立しているヴィランという認識しかないわけだ。
では、何故、『ジョーカー』をわざわざ映画館まで足を運んで見に行ったか。
大ヒットしてるからという理由もあるが、1番はネットでよく見られる「誰しもジョーカーになりうるんだ」という主張に惹かれたからである。
「ジョーカーに共感してしまう」「俺もジョーカーになるかも」と言った感想から、「日本人はジョーカーになりやすい人種だ!」という人種的観点から見た感想などインターネット(主にTwitter)では皆が悪の象徴であるハズのジョーカーを持ち上げ賛同している。
先進国でありながら貧富の格差が広く幸福度や平等度が有り得ない程低い、若者の自殺率が年々増えている異常な国・日本。
この暗く陰鬱な国の国民が共感してしまうダークヒーロー。その存在がとても気になったのだ。
まず率直な感想として、映画自体はめちゃくちゃ良かった。
ジョーカー、元いアーサーという一人の男が金・運・環境に見放され、悪の道へと堕ちていく過程が上手く描かれている。
辛くなると笑ってしまうという精神疾患持ちで、さらに妄想癖持ちの老いた母親と二人暮し、コメディアンを目指して夢を追いかけるが笑いのセンスがちょっとズレてて中々上手くいかない。ピエロのバイトでは通りすがりの若者にリンチされたり、同僚にハメられてクビにされたり散々だし、近所の女に想いを寄せるが気味悪がられてストーカーと化すし.......。果ては、依存先であった母親が重度の精神疾患持ちで、過去にパートナーとネグレクトや虐待を自分に対して行っていたという事実が発覚。コメディアンの舞台として憧れていたテレビ番組に嘲笑の的として呼ばれる。
確かにこれだけの不幸が続けば人間壊れていくのは簡単で、アーサーが日々を重ねる毎に静かに狂っていくのが手に取るように分かる。気持ちもとても分かる。
そして、更にアーサーをジョーカーへと導いたのは、ゴッサムシティの人々の不満だ。
アーサーが1番初めに犯した犯罪は、ピエロ姿の彼をからかって暴力を振るってきた証券マン3人を銃殺したことである。
この事件から、人々の富裕層への不平不満が爆発し、ピエロの仮面をつけた人々がデモを起こすようになる。
言わば、アーサーはムーブメントの火付け役となり、悪のカリスマとしてシンボルとなった。
この事件をきっかけに、彼は「俺が死んでも皆踏みつける」「だが、俺はここにいる」と自己存在感を見出すことになる。
今まで、誰にも注目されることの無かった彼が、大勢の人の中心となり崇拝される立場となる。それだけで彼の心は潤ったのだと思う。
バットマンシリーズでヒーローとして描かれるウェイン氏を悪役とし、ヴィランとして描かれるジョーカーを逆に正義として描く。
これはとてもドラマ的で同情を誘いやすく、又アーサーを報われない悲劇の男として描くことで更に共感を呼ぶ。
バットマンシリーズをマトモに見てないので、これがバットマンシリーズの正式な作品かどうか問われればノーコメントだが、1つの映画としてはかなりよくできた作品だと感じる。
さて、ここで最初に述べた話を思い出してほしい。
「誰しもジョーカーになりうる」「日本人はジョーカーになりやすい」
こうした意見が沢山ネットで見受けられる。
実際にジョーカーを見た身だからあえて言おう。
果たして本当にそうだろうか?
物語の後半、テレビ番組に出演しているジョーカーはこう言う。
「俺にはもう失うものはなにもないんだ」
仕事も無い、親も殺した、金も無い。言わば彼は“無敵の人”である。
無敵の人と言えば記憶に新しいのが、川崎市登戸通り魔事件や京都アニメーション放火事件。ちょっと昔だが愛知の新幹線無差別殺傷事件。そしてさらに昔に遡れば、秋葉原通り魔殺人の加藤や附属池田小事件の宅間が頭をよぎる。
ジョーカーに共感した、なるかもしれないと言っている人は、実在した無敵の人に対しても同じ言葉を言うのか。
否。
彼ら無敵の人に対して世間は「自分の苦しさや自殺に人を巻き込むな」「お前の育った環境など知らない。殺人鬼は死刑」などの言葉を浴びせる。
又、自殺した人に対しても日本人は非常に冷たいと感じる。
電車に飛び降りて自殺すれば舌打ちがそこらじゅうから聞こえてくる。
貧困や生きづらさ、虚無感に共感を感じる人間ならそのような言葉も舌打ちも出てこないのではないだろうか?
更に私が違和感を感じたのは、普段からsyamu_gameや性の喜びおじさんなどを晒し上げオモチャにし笑っている人間たちが「誰しもジョーカーになる」と言って自分を憐れんでいる現状だ。
物語の主人公アーサーには辛くなると笑ってしまう疾患がある。
もしも、アーサーが実際に日本にいたらどうだろうか。
多分、「電車にヤベー奴いたw」と盗撮されてTwitterやInstagram、TikTokに載せられ遊ばれる。
つまり、“日本人”という人種はジョーカーになりやすいのではなく、ジョーカーを笑い者にする側になりやすいのではないかということだ。
日本人取り分けその中でもインターネットに住む人々は自分が無意識な加害者になっていることに気付かずに生活している。
確かに、生きづらさを抱えた人間が度を越すとジョーカーになりうる可能性は十分有り得る。だがしかし、反対にジョーカーを生み出す確率も同じなのだ。
では、『ジョーカー』に何を見い出せばいいのか。
ジョーカーは確かに生きづらい不安を抱えた私たちに寄り添って一緒に怒ってくれる。怒りを爆発させて正当化してくれる。
だが、そこで怒るだけではいけない。ダークヒーローを簡単に容認してはいけない。
どうすれば、無敵の人を作らずに済むのか、悪を生み出さないように、自分が悪に堕ちないようにするにはどうすればいいのかを考えなければならないのだ。