『トイストーリー4』について思うこと(※ネタバレ有り)
『トイストーリー』と言えば、今やPixarを代表するシリーズで世界中から愛されているおもちゃの世界を舞台とした映画だ。
1,2,3とどれも高い評価を得ている。
特に『トイストーリー3』は完璧なラストとしてかなり高い評価を受けている。
私もラストには涙を流さずにはいられない。
そんな素晴らしいラストを迎え、終わったと思われた『トイストーリー』の最新作。
『トイストーリー4』
結論から言うと、私はかなり良かったと思っている。
だが、世間では賛否両論を呼んでいる問題作だ。
今回は、その世間の賛否と比較しながらレビューしていきたい。
1.完全な悪役の欠如
まず、第1にこの映画には完全な悪という存在はいない。
ディズニーと言えば、ヴィランズあってのものというイメージが強い。
現に、トイストーリーシリーズではちゃんと各ストーリーにヴィランズが設定されている。1では悪戯坊主のシド、2ではおもちゃ屋の経営者アル、3では保育園の独裁クマロッツォ。特にロッツォがその見た目の可愛さとヒトラー並の独裁政治とのギャップによって人気を博している。
どのキャラクターも完全な悪として描かれている。(ロッツォに対しては悲しい過去があるが彼の残忍な性格から完璧な悪役として設定されているのは明白)
しかし、今作はどうだろうか。
確かに、アンティークショップの女王として君臨しているギャビー・ギャビー、彼女の手下であるベンソン人形など、人形ホラー映画顔負けのキャラクターが登場する。特にベンソンは映画『デッドサイレンス』に出てくる腹話術人形にそっくりで、途中で私は『チャイルド・プレイ』新作を見に来たのかと錯覚したね。
彼女達は最初こそウッディを狙っているが、それには深い訳があり、ウッディ自身も最終的には彼女の要件を受け入れることとなる。
彼女の願いは『愛されること』
しかし、ボイスボックスが壊れていて上手く機能できない彼女はそのせいで子供に愛されないと思っている。
その子供に愛されたいという渇望が彼女を突き動かし、ウッディのボイスボックスを狙って手下のベンソン達と行動を起こす。
ずっと愛されることを夢見て、今まで沢山の愛の記憶を持ってるウッディに対して「貴方は十分じゃない。私にも教えて欲しい」と懇願するシーンは涙無しでは見られない。
1度は子供に拒絶される彼女だが、ウッディ達と行動することで、1歩を踏み出し新たな持ち主を見つけることができる。
これが完全な悪と言えようか。何と人間臭くて悲しい、しかし生に溢れた温かいキャラクターなんだ。
見る前から様々なレビューで「悪役がいない」と言われていたが、確かにこのストーリーにはヴィランは居ない。全く、居ない。
『愛されたい』という願いが暴走し、絶望し、そしてそれを乗り越えて幸せを掴み取る。トイストーリー4では主に『成長』をテーマに描かれているが、彼女もその成長を遂げたキャラクターの1人なのだ。
2.ボー・ピープという存在の描かれ方
さて、4にはシリーズ途中でリストラされたかのように思われたボー・ピープという陶器でできた女性のおもちゃが再登場する。
元々の彼女はウッディと友達以上恋人未満的な描かれ方をしており、性格も女性らしくお淑やか且つ少し上をいく小悪魔お姉さんキャラだった。見た目もメリーポピンズみたいなふんわりしたドレスに杖、という"いかにも"的な容姿であった。
そんな彼女の再登場としてボーファンは歓喜したのではないだろうか。
しかし、今作の彼女は前のまま出てきた訳ではなかった。
1度はアンディ家を離れ、他人の手に渡るも、そこでも別れが訪れアンティークショップに売られ、そして今は店を出て野良のおもちゃとして一緒にいた3匹の羊、そしてレゴの従業員みてぇなちいせぇおもちゃギグルと一緒に放浪する身となっている。
服装も前のドレス姿ではなく、スタイルの良いパンツスタイルにドレスをマント代わりに使っている。
言わば、彼女は今作で『自立した女性像』として描かれている。
これは近年のディズニー映画、いや映画界全体における流行りだ。
近年の社会の変化として、女性のこれまでの扱われ方を疑問視し新たな女性の生き方を主張するフェミニズムが登場した。ここから文学の世界では『男性の手を借りない女性』『バリバリ働く女性』『恋愛だけを夢見ない女性』など、強い女性が描かれることが多くなった。
ボー・ピープもその1人である。
しかし、
「ボーってこんなキャラだっけ?」
「もうディズニーの露骨なフェミの押しつけはごめんだ」
否定派にはこのような意見がある。
前者はこれまでの設定の改変による不快感、後者は露骨すぎるマイノリティに対する援助への不快感である。
日本人はこれまでずっと続いてきたことが突然変わることに慣れていない。サザエさんやドラえもんを例に出すと分かりやすいが、彼らはずっと同じ時を生き、同じようなストーリーを毎回繰り返すことでお茶の間を沸かしている。もし、のび太とドラえもんが本当に離れ離れになって、これからはのび太又はドラえもんどちらか1人の物語が始まりますと言われたらどうなるだろうか。きっと炎上する。
そういうことなのだ。日本人にとって設定の大幅な改変は途端におかしなものに見える。(後に記述するが、これは今作のラストでも同じことが言える)
そして、マイノリティの問題だが、これは今の流行りなので何とも言えない。
良いと思う人は良いと言うし、悪いと思う人は悪いと言う。社会とはそういうものである。
ちなみに、私はかなり好意的に受け入れられた。結局のところ、恐れず自ら進んで行動を起こせていたボーはかなり格好良く見えたのだ。腕が取れても、作戦を失敗しても、ウッディは怖がるばかりでもボーはさっさと原因を修繕し前に進んでいく。
私はフェミではないが、男性の手を借りず自立した女性というものには憧れがある。つまりは、結局まだ理想的な女性の在り方は社会において実現できていないのだ。
そうしてそれが、文芸や芸術の流行りになり社会に訴えかけるという構図が出来上がっている。
3.ラストのウッディの決断について
賛否両論ある中でもっとも言われているのがこれだ。
ラスト、ウッディはボニーの元に帰らずボーと共に放浪の身となることを選択する。そしてそれは必然的に今までの仲間と離れ離れになることを示している。
これに対し、否定派と賛成派がいるのだが、2つを比べてみるとこうなる。
まず否定派。こちらは、アンディ目線(つまりおもちゃは子供のもの)で見ている。
次に賛成派。これは、おもちゃ目線(子供はおらず、おもちゃ自信がどう考えるか)で見ている。
アンディ目線で見ている人々は、結局ウッディはボニーを見捨てた。自分が愛されなくなったからと言って持ち主の元、そして仲間たちと離れるのは如何なものかという観点を持っている。
ボニーがおもちゃを無くしたことに気付けば悲しむのでは?ウッディとバズは永遠の相棒でしょ?
果たして本当にそうだろうか。
ラストで戸惑っているウッディにバズは
「ボニーなら大丈夫だ」
と言い背中を押す。
確かにウッディとバズは永遠の相棒である。でないとこんな言葉はかけられない。しかし、離れ離れになったとして彼らの絆が消えることは無いだろう。これからウッディは1人のおもちゃとして、バズはボニーのおもちゃとして互いに違う人生を送る。しかし、お互いを忘れることは無いだろうし、一緒に過ごした日々が消える訳では無いのだ。
そして、さらに、ウッディは大切な保安官バッジをジェシーに渡す。
そう、ウッディはボニーを"見捨てた"のではなく仲間に"託した"のだ。
そして、やっと本当の自分を見つけたウッディは仲間と別れ歩き出す。
極端に言えば、これは『トイストーリー』ではなく『ウッディ自身の成長ストーリー』と言った方が正しいかもしれない。
もしかしたら、今作の題名が『トイストーリー4』ではなく『ウッディ』であったならこのラストに納得する人は今より多かったかもしれない。
前述でも記したように、日本人は変わることに慣れていない。
『トイストーリー』シリーズの延長として今作を期待していた人にとってこのラストは確かに残酷で憤怒の対象であるかもしれない。
だが、この手法実は『シュガーラッシュ:オンライン』で既にやっている。
そして、更に面白いことに、今作は日本のレビューサイトでは83%の満足度に対し、米国の有名レビューサイトではなんと98%の支持率を獲得している。
この98%、実は完璧なラストを迎えたと言われる3よりも高い評価となっている。
日本で賛否両論の嵐を巻き起こした『トイストーリー4』。この評価、実はお国柄の問題が大きかったのかもしれない。
番外編:キャラクターがメンヘラすぎる
これは世間で言われていることではなく、私自身が勝手に思っていることなのだが、キャラクターがもれなくメンヘラ的である。
まずはメンヘラ代表、新キャラのフォーキー。
「僕はゴミだー!」という特徴的な台詞で登場した彼は、ボニーが自作し大切に扱われているおもちゃなのだが、自らをおもちゃとして受け入れようとせず目を離すと直ぐにゴミ箱に入ろうとしてしまう。
「僕はゴミ」という台詞を見た時、(おいおい、メンヘラの自己紹介か?)と咄嗟に思ってしまった。
愛されているにも関わらず、それを受け入れず元の場所に固執しようと自分を下卑する、自虐的メンヘラに認定したい。
そしてウッディ。
こいつは参った。結論を言うとこいつは過去の栄光に縋りたがり執着型過保護メンヘラである。
まぁ、それが顕著に現れているのが最初のシーン。ボニーに貰われても、結局頭の片隅にあるのはアンディアンディアンディアンディ……。そして、おもちゃのリーダーであった過去の自分。
更にその栄光を取り戻すために、ボニーに好かれてなくてもボニーの面倒を見ることが自分の使命であると勝手に責任を全て背負い込む始末。
なぁ、お前の過保護は相手のためじゃねぇ、多分全部自分のためだぜ……。
ギャビー・ギャビー
わっっっかりやすいメンヘラ。
愛が欲しいの、お願い助けて。そういう典型的メンヘラ。多分誰がどう見てもメンヘラ。
あの子と遊ぶ時のためにティーパーティーの練習をしてるの♡
私が良くなったらあの子は私を好きになってくれるはず♡
とか……もうね、メンヘラを超えてヤンデレ。
でも分かる。自分が悪いから好かれないと思い込むことも、それでも愛が欲しいと懇願するジレンマも、めちゃくちゃ分かる。ただただ普通に共感する。メンヘラなので。
ギャビー・ギャビーさんには、このメンヘラがすごい!メンヘラ大賞2019を差し上げたいと思います。
デューク・カブーン
フォーキーを助けるためにウッディ達に協力するレゴみたいなバイクに乗ったおっさん。なだぎ武みたいなやつ。
彼は、CMではダイナミックなジャンプを披露するも、本当はそんなことはできないと持ち主に知られ飽きられる。そして、その過去のトラウマから自らの役目であるジャンプに対しての恐怖を持っている。
そう、トラウマ型メンヘラだ。
他の人から褒められれば途端にやる気を出すが、行動の寸前でトラウマが頭を過ぎり直ぐにネガティブになる。めっちゃ情緒不安定、躁鬱。実際いたら本当めんどくさいメンヘラ。ガチの人。
他にも、毒舌ひねくれ型メンヘラ・ダッキー&バニー(別名チョコレートプラネット)、自らの意思ではなく声に従うだけのポンコツメンヘラ・バズなど様々なメンヘラが登場する。
だが、ここでのメンヘラは悪いことではない。何故なら、今作は如何にそれらを乗り越え成長できるかという物語だからだ。
それぞれが自分のアイデンティティを見失い戸惑う。しかし、他人との触れ合い、そして思考することによって自我の発見によって克服する。
ラストがどうとか、トイストーリーじゃないとか、社会背景反映されすぎとか、そんなこと全部置いておいて、ただただメンヘラとして心救われる映画だったことに間違いないのだ。